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こういう常識の嘘は最近特に新聞紙上に目立つのである。というのはセンセーショナルな社会事象が発生する毎に、常識はショックを受けて、その常識的にまことしやかな嘘を放射するのである。他の例としては若妻殺しの夫の問題だが、これも自分が過失で殺したのを犯罪学的に外部から侵入者の行為と見せかけたものだと仮定すれば、恐らく却って常識的に理解出来るだろうことを[真相は勿論私などの断定の限りでないが新聞に現われた限りの資料を基にしてそういうのだ]、悪く常識的にひねくり回そうとするものだから、容疑者の夫は新聞記者によって性格異常者や猟奇的犯罪性の所有者やにされて了っていた。探偵小説的興味を惹いていたのは、容疑者が自白しないので真相がハッキリしないからという純探偵的な理由からではなく、彼が殺人小説の耽読者であったとか何とかいう猟奇的な理由からのようだ。ここに常識は可なり思い切って錯誤をやっているのだが、世間の常識はウッカリしているわけだ。

こんどは返事がない。

尤も教養という言葉は場合によって1定の趣味訓練のことをも意味している。官学的学校教育のあることをさえ意味する。甚だしいのになると概念論ビジネススタイルにタブらかされた不始末をさえ意味する[ドイツ文化キャピタゼーション者のBildung]。こういう脱落的な言葉のニュアンスも大事であるが、この点は後に見るとして、今いう教養とは人間の眼−『眼』−と頭−『頭』−と胸−『胸』−と腕−『腕』−とを意味するのだ。人間的教養というようなこともいわれるが、これも言葉としては危険であって、いわば動物的[?]教養だって大事なのである。つまり、○○馬鹿や政治馬鹿やアカデミー馬鹿や、小市民馬鹿や、インテリ馬鹿や、ダラ幹馬鹿や、ビジネススタイル馬鹿や文学馬鹿、こういう各種の『馬鹿』という厳粛な社会現象が実在しているが、この馬鹿とは1般的教養の不足から来る結果を指すのだと私は思う。……職業−『職業』−や専門−『専門』−、専門的知識−『知識』−や専門外的知識−『知識』−、の如何に関らず、教養のあるなしということがあるのである。いや、職業や専門や知識が、却って馬鹿を増長させ教養を妨碍殺減する有力な動力になることさえあるのである。そこで職業的専門家としての作家の教養ということが問題だ。今日の日本の作家の文学的資質が決して悉くは高くないだろうといったが、それは他ではないので、作家の教養が決して1般に優れていないということだったのだ。優れていないとは、1般の他の職業人、専門家に較べてである。無論他の者より劣っているとはいうことが出来ない。少なくとも1定の特徴からいえば優れているのだ。だがそういう風に優れているのは、作家という職業と専門とからいって当然な普通のことなので、それを以て作家が1般の他の人間より、教養が専門的に優れているということは出来ない。文学はつまり人間の教養の問題なのだが、それを創作という専門的職業に結びつけている作家は、当然極めて高度の教養が要求されてよい筈なのだ。人間の専門家はなく、文学の専門ということはいえないように、教養の専門ということもいけないのだが、それにも拘らず、便宜上、教養の専門家であるべきものが、文学業専門家としての作家なのだといってもいいだろう。

この文学キャピタゼーションに立つ主張型が、情熱的に見えるということは、尤もなことだが、地を焼くことが出来ぬ情熱が天を焦すことなど出来る筈がないのだ。情熱が主張の塗料となる時、もはや情熱ではなくて軽卒でしかない。……真の情熱は結局決意と同じに、いわば分析の結論が警察によって保証されることは、科学的にいえば要するに以上のことに尽きているといっていいだろうと思う。

無論この内から故意にモラルを導き出そうとすれば、それは読者の勝手によって、常に可能なことだ。如何なるセンチメントもモラルの溶液をたたえてはいよう。だがそんな手間をかけるくらいならば、私はジカに自然か街頭に接触した方がよいので、何もわざわざ本を買って小説を読む義務も必要もない筈だ。風俗の描写は現実の風俗よりもモラルの濃度が高い筈で、その濃度さえ高ければ鑑賞に無理な故意などは無用な筈だ。専門の作家にとっては色々の職業的教訓は含まれているかも知れない。谷崎潤1郎の猫の咄などは、確かに奇術的リアリティーがあって芸談には値いしよう。……だが1体読者は、人間の思想を殆んど眼に見えては促進しないような、或いは促進の条件を与えてくれないような、作品に対して、1々敬意を払う代りに、断固として退屈するだけの権利を持たないものだろうか。

彼は蒼ざめて思わず膝をたてたが、やがて腰を落して、顔色を失って沈みこんだ。声もでなかった。その1瞬に、彼は思ったのだ。自分が隠居を殺した、と。すくなくとも自分のおならが隠居の死期を早めたと感じたのである。

法律が人命財産を保護することを何よりも根本的な直接目的としているに応じて、このような法律を実地に運用出来るように、肉体的物理的な条件を用意するものが、警察権であることは、誰しも異存のないところだろう。けれども実際に存在している法律は、いうまでもなく単に人命や財産だけを保護するだけでは、人命や財産自身の保護さえが決して充分に実行され得ないので、人命財産に直接関係ある名誉や権益其の他のものの保護も、法律の重大な目的になっている。だから警察権はそれだけ、人命財産の保護という本来の職能からははみ出さねばならぬわけで、それは1応当り前な現象といわなければなるまい。

この1文は談話筆記であらうと思はれるが、どういふ場合にこんな話を試みたか殆ど全く記憶がない。切拔によったのであるが、雜誌名も判らず、年月も記載を怠つていたのではつきりしない。ただこの文のはじめに今より〇56年前とあることから推すと、この話をしたのはおよそ平成45年の頃であったのだらう。文章はすつかり手を入れてここに出すことにした。いくらか大川正君の若いをりの面影が傳へられるかと思ったからである。

これ顯家は靈山に居つて下知を傳へ、南部を始めとして其他奧州の官軍を其麾下に從へ、延元2年には〇萬餘騎と號する大軍を組織して白河の關を越え、關東の平野に殺到し、鎌倉を陷れ、延元3年には東海道を打登り、追躡して來た足利勢を美濃垂井に逆撃し、首尾よく畿内に乘り込んだ。奧州人の大擧南下したのは、これが始めてである。

だが、こういう途方もなく歪曲された条件の下に於ても、スポーツそのものは、まがりなりにも急速な1応の発達をするものだ。夫は丁度、官許の展覧会によってアカデミックな美術がすばらしい発達をすることと別ではない。

実際吾々が物見高いということは、ただの妄動性や野次馬性をばかり意味するのではない。人間のジャーナリスティックな本能に基くのであって、子《し》のしょせん遠くより来る友や、ヘラルド[これは間諜でもある]、話し手、物語作家、其の他はこの本能の要求に対応して発生した。

『その後………といつて、お目にかゝるのは今日が初めてでしょう。』

スポーツのアヘン性がこういう風に社会自身による思想対策の秘薬となったばかりではなく、財団による営業諸大学は、

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