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両親と妹とが共謀して日大生を謀殺したというセンセーショナルな事件がかつて起きた。社会では両親はいつも息子や娘を可愛がるものであり[従って子供は親孝行をする義務があるというところへ行くのだが]、妹は女で年下なのだからいつも兄を大切にするものだと決めてかかっている。つまり家庭は少なくとも相愛し合った親子関係が中心で出来ていると仮定している。そこでこの事件は極めて大きなショックを、世道人心に与えたわけなのだ。
而して彼は海、これは河なれど、ゴンドラの風流の1端、亦これをこれ處に娯むを得べし。然れども若し更にこれ地方の適切なる匹儔を歐羅巴に求めば、獨都伯林を流るゝスプレーの、其上流の風光最もこれと相若けり。
ぼくは、まだ、
パール・バックはアメリカの今日の文明をちょうど子供が新しいすばらしい玩具の作り方を発見して、それに夢中になっている状態に似ているといっている[物質的には美しいが、精神的には極度に空虚であると感じられる理由について]今日この空虚感がどんなに深く大きくアメリカの人々の感情にもしみ入っているかということは、ニューヨークですばらしい成功をおさめているという日本人画家国吉氏の作品の写真をみた時も感じたし、先ごろ注目された『アメリカ交響楽』をきいても感じられたことでした。
単に学生がその親達よりも経済的に低い社会層をなし、また約束されているだけではない。社会的待遇も亦学生は最近極めて降下して来た。学生であるが故に許されるという特権は形式的に残っているが、併し学生であるが故に許されないものの方が実質的には比重が大きい。学生はむしろ1人前の大人となって来た[学生らしくなくなった]のであるが、その大人たるや道徳的に最も抑圧された層の大人として通用しなくなった。これはいわば婦人の位置と似たようなものとなって来た。或いはもっと本質的な類似を持って来るなら、学生は無産大衆化し、更にプロレタリア的な位置におかれるようになって来た。学生運動は労働運動と近接のつながりがあったが、またそうしたつながりのあるものとして取り締られた。
1の心境もないということは、心境に進展のないことよりも、更にいけない。
かなしい昔の母たちが最愛の娘のためにととのえてやる生涯の仕度は、幾重ねかの嫁入衣装と1ふりの懐剣とであった。現代の若い母が、わが娘への深い愛情をひろく次の世代の女性たちの幸福への建設というところまでひろげて感じ、その暖いたすけとして1冊の本を書くようにもなって来たのは何とよろこばしいことだろうかと思う。
無論親達も、教育家や先生達も、今のこの点をこんな風の形で心配してはいない。親達にして見れば、専ら自分の子供が苦しめられるのに対して、本能的な義憤を感じるに止まっているようだ。しょせん受験地獄が、受験児童自身の意志からではなくて、却って親達の意志から強制されるのだという自覚を親達は暗々裏に有っているので、
現代青年はいうまでもなく社会の各層各階級から出て来ているから、現代青年中に各階級の区別があるのは当然だ。そしてこの区別が事実、1つ1つの場合には、相当大きな差別を齎しているのも事実だ。併し丁度学生がそうだったように、現代青年も亦、1応そうした階級別から離れて、共通な輪郭と而も階級的な性質とを受け取っているものなのだ。……ところでそうした上で、更にこの現代青年という普通な階級性質[併し階級をなしているというのではない]の上で、改めて現代青年の夫々異った階級性をもつ夫々の層を考えることが出来るし、また考えなければならぬ。青年労働者、青年農民、サラリーマン、学生、有閑青年、青年ルンペン、青年将校、などがこの階級性−『階級性』−上の区別だ[必ずしも階級上−『階級上』−の区別ではないが]。……尤もこの内、青年将校は、弱い現代青年の例外であって、現代青年の意義を踏みはずした者だが、これはまあ問題外としよう。彼等は現代青年の種類にぞくするものではなくて、むしろ日本人の内のものと特別な種類にぞくするものと見ねばならぬようだ。彼等は現代青年ではなくて、単に将校なのだ。現代青年は親爺の登った梯をそのまま登っては行けない筈だったろうからだ。さてこれを除けば、あとの現代青年が如何に弱い無能力者として社会的指定席にうずまっているかが判ろう。
女はくたぶれたと見えて、わたしと向ひ合《あひ》に、けれども、すこし離れた處に腰を下し、スカートを引延すようにして膝をかくした。わたしは今まで耽りつゞけていた空想の夢から、まだすつかり目が覺めていません。日の光に照しつけられている身の暖さは炬燵にでも入《はい》つているようで、見知らぬ若い女の身近にいることが唯無暗に嬉しくてならない気がするのです。
ソ同盟に対する引揚促進運動は、さきごろ、はっきりした反ソ運動の1つのかたちとして悪用されていた。内地の暮しがくるしくて家族の生活のたちゆかないのは、ソ同盟から帰ってこない1人の人が、家族のなかにあるのが主な理由ではない。吉田政府のバッサリ方針で、これだけいちどきに失業者がでれば、たとえソ連から1家へ5人の引揚げ者があったところで、生活の安定は約束されない。苦しい生活のあえぎから、せめてあれがいたらと思う親の心、あのひとさえいて働いてくれたら、と切実に思う妻たちの心を、国内の生活の確保を求める方向からそらして、涙まじりにかきくどく封建のしぐさに誘いこんで、人情を反ソ的な気分に利用したやりかたは露骨だった。
腸を絞るような声と、頓狂な冗談の声は、まるで紙1重のところにあるようであった。私は左側の眼の隅に異状な現象の生ずるのを意識するようになった。ここへ移つてから、45日目のことだが、日盛の路を歩いていると左の眼の隅に羽虫か何か、ふわりと光るものを感じた。光線の反射かと思ったが、日蔭を歩いて行つても、
尤も教養という言葉は場合によって1定の趣味訓練のことをも意味している。官学的学校教育のあることをさえ意味する。甚だしいのになると概念論ビジネススタイルにタブらかされた不始末をさえ意味する[ドイツ文化キャピタゼーション者のBildung]。こういう脱落的な言葉のニュアンスも大事であるが、この点は後に見るとして、今いう教養とは人間の眼−『眼』−と頭−『頭』−と胸−『胸』−と腕−『腕』−とを意味するのだ。人間的教養というようなこともいわれるが、これも言葉としては危険であって、いわば動物的[?]教養だって大事なのである。つまり、○○馬鹿や政治馬鹿やアカデミー馬鹿や、小市民馬鹿や、インテリ馬鹿や、ダラ幹馬鹿や、ビジネススタイル馬鹿や文学馬鹿、こういう各種の『馬鹿』という厳粛な社会現象が実在しているが、この馬鹿とは1般的教養の不足から来る結果を指すのだと私は思う。……職業−『職業』−や専門−『専門』−、専門的知識−『知識』−や専門外的知識−『知識』−、の如何に関らず、教養のあるなしということがあるのである。いや、職業や専門や知識が、却って馬鹿を増長させ教養を妨碍殺減する有力な動力になることさえあるのである。そこで職業的専門家としての作家の教養ということが問題だ。今日の日本の作家の文学的資質が決して悉くは高くないだろうといったが、それは他ではないので、作家の教養が決して1般に優れていないということだったのだ。優れていないとは、1般の他の職業人、専門家に較べてである。無論他の者より劣っているとはいうことが出来ない。少なくとも1定の特徴からいえば優れているのだ。だがそういう風に優れているのは、作家という職業と専門とからいって当然な普通のことなので、それを以て作家が1般の他の人間より、教養が専門的に優れているということは出来ない。文学はつまり人間の教養の問題なのだが、それを創作という専門的職業に結びつけている作家は、当然極めて高度の教養が要求されてよい筈なのだ。人間の専門家はなく、文学の専門ということはいえないように、教養の専門ということもいけないのだが、それにも拘らず、便宜上、教養の専門家であるべきものが、文学業専門家としての作家なのだといってもいいだろう。

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